神と共に生きる人間
第9~10章で私たちは、神の子イエス・キリストについて学びました。御子イエスは、私たちの罪がゆるされるために、十字架の上で私たちの罪の値を払って死んでくださいました。そして3日目によみがえり、天に昇り、天の神の右の座に座しておられます。そして、私たちがこの神様の救いに導かれるように、聖霊を送って下さり、今日も私たちを生かし、導いてくださっているのです。
さらにこの章では、イエス・キリストと私たちとの関わり、神と共に生きるということについて記してまいります。本来、神が人間を創造されたとき、人間は神と共に生きる存在として造られたのでした。アウグスティヌスは、「私たちは、神によって、神と共に生きるように造られましたから、神のもとに帰るまでは、真実の意味で心の平安を得ることが出来ない。」と告白しています。


1、神との関わり 神によって生かされている私たち
「私は神など信じない」という人でも、実際には神によって造られ、神によって今日まで生かされ育まれてきたのです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章45節)
 神はヨブという人に次のように言われました。「すばるの鎖を引き締め/オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。時がくれば銀河を繰り出し/大熊を子熊と共に導き出すことができるか。天の法則を知り/その支配を地上に及ぼす者はお前か。・・・お前は雌獅子のために獲物を備え/その子の食欲を満たしてやることができるか。・・・誰が野生のろばに自由を与え/野ろばを解き放ってやったのか。その住みかとして荒れ地を与え/ねぐらとして不毛の地を与えたのはわたしだ。」(ヨブ記38章31節~39章6節)
 神様は、このいのちの世界を造られたのみならず、この世界の生きとし生ける者を日々育み、支え養っていてくださいます。天地創造の当初は、アダムもエバも神との良好な関係にありましたから、あらゆる生き物も争い合うことはなく、この世界は死も苦しみもない世界でした。ところが、人類が神に背いてしまったとき、人類はそのあるべき姿から離れてしまったのです。
 
 イエス様は、神のもとを離れてしまっている人間の姿を教えるために、次のようなたとえ話を話されました。
 「21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
21:34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
21:35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
21:36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
21:37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
21:38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
21:39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
21:40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21:41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」」(マタイ21章33~41節)

 ここに登場している農夫たちは、主人によって養われ、主人が所有するぶどう畑の管理を任せられた人たちです。
 その農夫たちが、こともあろうに主人が送ったしもべたちを拒絶し、その言葉に耳を傾けようとはせずに抹殺してしまいました。あるいは無関心で主人の求めを聞こうとしませんでした。
 さらに主人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送りました。ところが、農夫たちは、自分を養ってくださっている主人の息子をも拒絶し、殺してしまったというのです。
 ここでイエス様が私たちに教えておられる一つのことは、この世界に生かされている私たちは、ブドウ園の管理を任せられ、主人によって養われている農夫のような者だということです。そのような主人の恵みに対して、私たちはどのように応えているのかということが問題になっているのです。
イエス・キリストの誕生やイエス・キリストの御生涯を他人事として見ているだけでは、神についても、自分自身についても、将来にわたる希望やいのちについても理解することが出来ません。あなたは、創造主である神によってこの世に生を与えられ、この方によって生きるためのあらゆるよきものを与えられて、今日まで生かされ育まれてきたとしたら、私たちはこの方の言葉に無関心ではいられないのです。
聖書は神の言葉ですが、それは神様の自己紹介であり、この歴史の中に実際に具体的に、神様が私たちの救いのために何をしてくださったのかを明らかにし、私たちがこの方の救いの恵みを受け入れて、神によってもたらされる命と希望の将来を生きるようにと招いておられます。

2、誰よりも私のことを知っておられる神

さらに聖書は、私たち自身を映し出す鏡であるとも言われています。
私たちは、他の人の顔を肉眼で見ることが出来ますが、自分の顔を見るためには鏡がなければ分かりません。その鏡も歪んでいたり、鮮明でなかったり、曇っていたらよく分かりませんね。鏡を見ることによって、外面を見ることは出来ますが内面を映し出す鏡はといえば、それは聖書にあるのです。
先に、神は天地創造の神であり、私たちをも創造なさったお方であると記しました。そして、これは何にしてもそうですが、例えばあなたが持っているスマホのことが誰よりもよくわかっているのは、それを作った人なのです。
あなたはスマホの使い方は知っていますが、これを分解してその中身がどうなっているかというところまでは分からないのではないでしょうか。分からないけれども操作することは出来ています。私たちは、この世に生を受けて、親によって育てられ、いろんな知識や知恵を身に着けることが出来ました。
しかし、自分の体や心のことを、先に人間は霊的で人格的な存在であるということを記しましたが、どれだけ知っているといえるでしょうか。
イエス様は、空の鳥を見なさい。道端の草を見なさい。神がこれらを養っておられるではないかと言われました。マタイによる福音書10章には、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(マタイ10章29~30節)と言われています。
 また、詩編139編には次のように言われています。
 「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。
どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」(詩編139編1~7節)

 心臓が動いて血液が循環しているということも、60兆個あると言われている私たちの細胞も、私たちの意識するしないとにかかわらず、今日もこのいのちが生きるように動いています。ここには神様の働き、御意志があるのだと聖書は教えているのです。私たちは、神によって今日も生かされている一人一人なのです。
 「生命」という領域は、すべて神の領域ですが、神は単に体を生かしておられるだけではありません。私たちの心や精神をも守り、支えてくださっているのです。
 
 神に背いた私たちを愛し、救いの道を拓いてくださる神

 神様は、誰よりも私たちのことをご存知ですから、私たちは、自分の知恵や努力によって、すなわち行いによって神が求めておられるような救いを得ることが出来ないものであることを知っておられます。
 ガラテヤ人への手紙には次のように記されています。
「3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤ3章21~24節)

 神様は、「あなた方はこのように生きていきなさい。」という神の御心である律法をお与えになりました。これは永遠に変わることのない、私たちが生きるべき基準であるということが出来ます。
 後にイエス様は、この律法を要約して次のように言われました。
 「22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」」
                      (マタイによる福音書22章37~40節)


 これは重要な言葉ですから、ぜひ覚えてください。
 そしてこの言葉のように私たちの思いと行いを整えてまいりましょう。
 しかし、先ほども記したように、神様は、誰よりも私たちのことをご存知ですから、私たちは、自分の知恵や努力によって、すなわち行いによって神が求めておられるような救いを得ることが出来ないものであることを知っておられます。私たちは、残念ながら思いと行いによって神様から、「あなたは義なる人だ」と認めていただくことは出来ないものです。パウロも、自分自身を振り返って次のように告白しています。
 「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマ書7章18~19節)
 パウロは、神様によって、特に異邦人に福音を伝える者として召され、とても素晴らしい働きをした人ですが、そのパウロ自身も、「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」と告白しているのです。あなたはどうでしょうか。
 正直に自分自身を振り返ってみる時、パウロと同じように思われるのではないでしょうか。
神様は、旧約時代のユダヤ人たちに律法をお与えになり、これらをすべて守るようにとお命じになりました。けれども、聖書に記されているように彼らはそれを守ることが出来なかったのです。それを守り行うどころか、律法に背いて、日々罪を重ねていくというのが実情であったのです。
ローマ書3章には次のように言われていました。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3章10~12節)神様がご覧になると、神の律法を完全に守り行うことの出来る人は一人もいないのです。だからこそ、主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9章13節)と言われたのです。

信仰によって救われる

ローマ書4章5節以下には次のように言われています。
「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」(ローマ書4章5~8節)
私たちは、誰一人として行いによっては救われません。私たちが、その罪を赦され、神の救いに与る唯一の道は、イエス・キリストを私の救い主と信じて受け入れることにあります。
ですから、イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われたのです。先に、「救い主の条件」を3つ挙げましたが、あの3つの条件を満たすことの出来る方はイエス・キリスト以外にはいないのです。
「この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒の働き4章11~12節)と言われているとおりです。
イエス・キリストについて、コロサイ人への手紙には次のように記されています。
「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(コロサイ1章13~17節)
永遠の昔よりおられて、この天地を創造し、今日も私たちあらゆるものを生かし育んでおられる方が、罪と死のうちに捕らえられている私たちを救うために今から約2000年前に人として生まれてくださったのです。それは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネの福音書1章14節)と言われているとおりです。ここで「言」と言われているのはイエス・キリストのことを指し示すものです。
私は罪人を招くために来たとイエス様は言われました。それは、行いによっては義と認められることの出来なかった私たちが、イエス・キリストという救い主を信じる信仰によって救われるという道をもたらしてくださったのです。
イエス・キリストの生涯と十字架の死と復活は、私たちが救われる必要のあるすべてのことをイエス・キリストが実現してくださったことを教えています。
私たちの救いは、そのすべてがイエス・キリストにかかっているのです。
この救いの恵みに与るために必要なことは、これを受け取ることです。
この神の恵みを信頼して受け取ることが信仰なのです。
目の前にオレンジジュースがあるとします。目の前に置かれていても、そんなものは無視していたり、疑っていたりしてこれを飲むことがなければ、そのジュースは自分のものにはなりません。この方が語られたみことばを、私への言葉として受け止め、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを私の救い主と信じて受け入れる時、神様が用意して下さった救いの恵みが自分のものとなるのです。
私たちは、イエス・キリストを私の救い主として受け入れ、十字架の上でなされた救いのみわざを自分のものとする信仰によって救われるのです。
聖書には「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ3:18)といわれています。また、エフェソ人への手紙2章には次のように言われています。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 (エフェソ2章8~10節)
この聖書の言葉には、このことに関連した重要な3つのポイントが示されています。
1つ目は、救いはただ神の恵みによるのであって、行いによるのではないということ。
2つ目は、救われるということは、神による新しい創造を意味しているということ。
3つ目は、新しく生まれたものには、善い行いをも備えられているということです。
創造主なる神が、私たちに、なすべき良い行いを備えていて下さることを覚える時、人生に意義が見出せないという虚無感から解放され、私たちが造られた本来の目的を達成するという最も幸いで充実した人生を送ることができると言えます。


第12章 救いへの道      理解のために


1) この宇宙や自然界にあるものは、驚くほどの調和と秩序をもって存在し、寸分もくるいなく動き続けているのはなぜだと思いますか。

2) あなたのことを誰よりもよく知っておられるのは神であるという聖書の言葉をどう思われますか。

3) 律法は、神が私たちに求めておられる生き方を教えていますが、それは一言でいうとどのようにまとめることが出来るでしょうか。

4) イエス・キリストは、私たちを罪と死の中から救い出すためにどんなことをしてくださったのでしょうか。

5) 信仰とは何ですか。